昨年、ラジオを聞いていたら演劇?関係者の旅行記を聞いた。彼はニューヨークに演劇をみに行ったそうだ。
けれども、ついた早々、コロナ騒ぎで全くホテルに監禁状態でまったく演劇、ミュージカルなど見れなかったそうだ。
ホテルで同じような演劇関係者と交友を深めたそうだ。
また、久しぶりに1年以上ぶりにキャバクラに行ったら六本木のイベントホールに努めていた2人の女性と話した。
彼女の1人は演劇やミュージカルをニューヨークでみようとお金をためていた。
以前、と言ってもかなり昔、ニューヨークに滞在してミュージカルや演劇を10本くらいみたことを話したのだけれどもかなり記憶がなくなっていた。
「え-と、それ見たんだけれども、題名がでない。おもいだせない。」
とかなり忘れていた。
考えてみるとこういった経験は財産だし、少し妬まれるかもしれないが過去の記憶をたどろうと思う。
コロナで以前は格安でいけた海外も今行くとチケットが高い。
ゴルフで知った知人のお嬢さんは片道40万くらいするのでチェコから帰れないなんて話も聞いた。
コロナはじき終息しておさまるだろう。
また、自由に海外にいける日もくるだろうと思う。
その日に私の経験が使えればよいと思う。
私の初めての海外旅行はハワイだったようだ。
車の販売店でセールスマンをしていてキャンペーンの旅行で行った。
まだ、エイチ・アイ・エスなどの格安旅行会社はなく、庶民には海外旅行は高値の花だった。当時、車業界はシーマ現象というとバブル期を迎えていた。
土地バブルが始まっていた。
パスポートを見ると1990年5月5日に出国、1990年5月10日に帰国している。
ハワイのオアフ島のワイキキだったと思う。
サーフィンはもうその頃はしていた。
ろくにまだショートボードにのれなかった。
ワイキキビーチは底は岩もまじっているのか決まった形の良い小さな波がたった。
レンタルでロングボードを借りてやっとボード立てた。
アラモアナのショッピングセンターなど観光もした。
1人でノースショアまでバスで行った。
隣のはじめてみる黒人のおばさんはやけに迫力があった。
ハレイワという橋があるサーフポイントの町で降りた。
バスにサーフボードの持ち込みは禁止されていた。
付近を歩いてバスに乗って帰った。
途中のドールの畑をとおってバスはワイキキに帰った。
アラモアナの近くのサーフショップでサーフボードをかった。
私は体重があった。日本では既存の作りおきのボードは浮力に問題があった。
ローカルのシューパー、ジェフワイドナーの作で7.2フィートのラウンドピンテール、大波用の板だった。
店には年寄と若い店員がいて年寄りはろくに英語がしゃべれない日本人を煙たそうに扱っていた。
戦争をくぐった人らしかった。
確か199.9ドルだったと思う。1990年は1ドル140円くらいだったようだ。
ショップには何だこれはというような板が並んでいた。
この大きさは日本ではありえないが普通だった。
テールが非対称のボード、ウインドサーフィンで使うようなボードもあった。
当時流行っていたブルーハワイ、ローカルモーションは高かった。
日本でしばらくその板をつかってサーフィンした。
初めての海外、本場のサーフィン文化にふれ、それ以降サーフィンにのめり込んでいった。