No.4 ハワイ(海外の記憶)

いい年になるので数多く海外に行った。

 

集計してみると40回出国していた。

多分訪問国は23か国以上だろう。

トランンジットの乗り換えで短期で空港にいたのを合わせれば滞在国はもう少し増えるだろう。

パソコンが壊れて今までのデーターが見れなくなっていた。

少しデーターが回復した。

 

四回目の海外旅行はサーファーの聖地、ハワイだった。

1997年12月26日から年を開けて1998年1月2日に帰国していた。

6泊7日だが日付変更線を超えて飛行機の中を考えると賞味5日だった。

 

格安チケットはポヒュラーではなかった

総額で50万円くらいかかったと思う。

JTB か何かでチケット、ホテルを手配した。

高かったのはレンタカー代がたしか5万位したような記憶がある。

現地でレンタカーは借りた。

ワイキキのホテルに泊まった。

ワイキキの近くのブルーハワイというサーフショップで2本板を買った?

昔なので記憶が危うい。

1本はローカルモーションのショート板、1本はもうなくなってしまったブルーハワイのファンボードを買った。

レンタカーは右、左ハンドルの位置と通行が違うので慎重になった。

ワイキキのレンタカー屋さんの周りををグルグル回って練習した。

左ハンドルはすごく違和感があった。

歩行者優先、横断歩道は歩行者に注意する。

「フリーズ」とパトカーが言ったら止まらないと拳銃で撃たれる。

現地にいるとき日本人が交通事故を起こしたニュースを耳にした。

 

 

1人板を積んで波のあるノースイショアに行った。

以前、ハワイに行ってから7年たつとドールから先は観光化された感があった。

ハレイワの橋の色が変わっていた。

ハレイワでは千葉にあるシークエンスのプロシューパー蛸さんが子供を引き連れて大会を催していた。

お上りの日本人のおじさんにはヘルメットを着けて海に入っている人もいた。

12月は少し肌寒かった。

初めの日はパイプラインの近くのエフカイビーチパークに入った。

轟音とともに波が巻いて危険だった。

先のサンセットビーチにも入った。

ここは、少し小さかった。

先に入っていたのはハワイで有名なランディーラリックに似た人が入っていた。

現地の人はこのボード300ドルで買ったんだぜーと現地の人が自慢していた。

無名のまっさらなボードだった。

その時つかったローカルモーションの板は700ドルぐらいしたと思う。

浮力が小さく買ってすぐにでなれなかった。

ハレイワの大会から流れてきたのか日本人のガキが海に3人?入っていた。

「どこから来たの?」とぐるぐるおじさんが聞くと「徳島」と元気のよい返事が返ってきた。

たしか大阪出身のビックウエーバーで徳島をベースに活躍していた??さん(思い出せない)がガキを引率していた。

サンセットの波は、小さくともリーフ特有の急にせりあがってお茶碗のそこからみるような面を作った。

情けないが小さな波に何とか乗った。

翌日、サンセットにいったときは波のサイズが大きくなっていた。

スペクタルのような舞台にサンセットは変わっていた。

大きな両方がとがった大波用のビックガンと呼ばれる板を使ったプロ?が入っていた。

とても無理そうなのでその日は見物した。

 

帰る前の日、晦日だった。

ブルーハワイのショップによるとお兄さんが明日はこれでパイプだぜとショートタイプのガンを見せてくれた。

夜、ホテルのエレベーターから見ると花火が聞こえた。

ファイアーワーク、日本でいう打ち上げ花火はヒューン、ヒューン飛ばす爆竹のような花火が咲かないようだ。

バー、ディスコらしところが混んでいるらしい。

2枚の板のパッキングと荷造りで忙しく新年を祝えなかった。

 

翌日、どうやって空港まで二枚の板を運ぼうと難儀した。

電話で呼んだつもりのタクシーは言葉が通じなくて来なかった。

ちょうど通りかけたリムジンのタクシーが板をつんでのっけてくれることとなった。

向こうではリムジンのタクシーが結構いるらしい。

トランクに出っ張りながらいれて空港にリムジンでいった。

 1996年に発効した5年間有効のパスポートはこれのスタンプだけだった。

安サラリーマンで経済的にも時間もなく終わった。